佐世保拳銃乱射事件。

Kの壁のことを書いたら、完全に壁の向こうに行ってしまった人間が
現れてしまった。犯人の行動は常人には到底計り知れない。
それがKの壁のこっち側と向こう側なのだ。
完全に交わることの出来ない話がそこにはあるのだろう。
そういう人間がいたるところで生きている。
長崎はそういう人間が出来やすいところかもしれない。
長崎に住んでいるとよくわかる。
長崎特有の…というのはそんなにないとは思うが、
ストレスが溜まりやすいところであるというのは間違いない。
                         
佐世保という街は長崎から遠く離れている。
長崎といい交通手段がない。
高速で行こうとすると一旦長崎県を出てしまう。
笑い話みたいだが、そういう場所だ。
僕は佐世保という街が好きだった。
友人の一人であった彼もそこに生きていたから。
彼はもうすでにこの世にいない。
僕も演劇から離れてしまった。
                       
前述したが、人を殺すということは非常に難しい。
でも、自分で自分を殺すほうが一番難しい。
完全に抑制の壁を解いてしまわなければ出来ない行動だ。
しかし、人を殺すことの抑制を極限までに少なくするものが
ある。それが拳銃である。
殺し屋から言えば「アマチュアが使う代物」とまで言われる拳銃。
老人から子供まで、それを使えば殺せるし殺される。
ナイフではなかなか殺せない。素手ならなおさら。
感情の浮き沈みだけで殺人を引き起こせるのは拳銃が簡単だ。
                         
この事件の真相は後々語られるだろう。
でも、もう死んだ人は帰ってこない。
死んだ人間が良かろうと悪かろうと、被害者で終わる。
本当の無念は加害者側も叶わない。そういうものだ。
いいことなど一つも生まれない。それが殺人です。
いいことではない。いいことではない。
でも、人は壁を越えることだってある。
越えてはいけないのだ。越えさせてはいけないのだ。