僕は何故にそう思うのか。

長崎の市民参加舞台についてやはり一言言わなければいけないのかもしれない。
長崎には幾つかの劇団が存在している。その幾つかの劇団の中の幾つかがその市民参加舞台に「関わっている」。関わっているという言い方は今までの流れでいうとその言い方でしかない。
この舞台は長崎市が関わっている。それはあくまでも公平で無くてはならない、と思っている。独占、という言い方ではない。その幾つかの団体が残った…といえばいいのだろう。でも、それは僕にしては不可解でしかない。
長崎市の劇団は完成されてはいない。これだ!という劇団は無いといっても過言ではない。その段階で本当の市民をその幾つかの劇団が関わった市民劇に参加させ、生まれるものははっきりいって満足できるものではない。レベル的にも御遊戯会に毛が生えたものだ。それを一体どうするのだ?金を取る意味があるのか?わからない。全く持って、わからない。
まだアルカスの佐世保の方が「市民参加舞台」というべきだ。それには歴然として御遊戯会に毛が生えたものというシンプルな存在理由がある。
いい劇を見ることからはじめては?というのは映画祭的な考え方で、その上で上映される市民参加映画はやはりその中では御遊戯会に毛が生えたものという確固たる考え方が必要だからだ。

つまり、市民参加舞台には「流れ」は必要ない。その時間内で作られたもので完結すべきだ。「流れ」は作ってはいけない。どうもその「流れ」が出来ていて、僕としては気分が悪いのである。中でどんな美しいバックアップやすばらしい連携があろうとも…である。
もう、今年で辞めない?来年はいい劇団を3つぐらい呼ぼうよ。