超短編:その名前。

僕が昔この場所じゃない、遠くにいたときの話だ。
姿は知っている、名前も知っている、でも会ったことがない人間がいた。
その人は女性で、同い年で、もっと遠くに住んでいた。
彼女が彼氏から振られたのも知っていたし、
その後に新しい男性と出会ったことも知っていた。
彼女の名前はメイという。5月に生まれたから、メイという。
僕はその名前が好きだった。彼女の存在はその場所の空虚を埋めていた。
「君がメイなら、僕はジャヌアリーだね」
電話の向こうで笑い声がした。僕はタバコをふかした。
愛してはいなかった。そういう考えは殺伐とした現実問題の中に消え去っていた。
ただ、大切だった。
彼女は仕事場からでもすんなりとメールを返してきてくれた。
大きな倉庫の片隅で僕はそれを見て、空虚のパズルを埋める。
変な作業の繰り返しだった。
 
僕がその場所を去る日がやってきたとき、メッセンジャーの向こうにメイがいた。
「生まれ変わるってことはすんなり行かないよ」
「後悔はしないほうがいい」
「がんばってね」
「そうだね」
「じゃあね」
「うん」
それで、メイと僕のか細い線は切れた。
お互いが引っ張って切ったのだ。そう思うことにした。